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とりあえずやってみよう
■カテゴリ「それぞれの旅論」の記事一覧

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旅っていうのは、何か探し物をすること、そして目的があること、そして何かを捨ててまでも、どうしても成さねばならぬことがあることだと思っている。
行った時点で終了するのならば旅ではなく、目的地に着くことで、旅が完結するようなキャラバンはもうこの世には存在しない。
というのも目的地に行くことなど簡単であり、今はとくに目的地で果たす使命もないに等しい。

昔は目的地に着くことが旅の主眼におかれていた。
今住んでいるところよりもその目的地の方が、水も食べ物も豊富だ、だからゆこう。
ヨーロッパで手に入れた品を、中国へ行って売って、お金にして家族を養おう。
だが、電車やバスもない時代、旅に出る=命を危険にさらす、ということになる。それでも、それでも行かなければならない。
目的があるため、行かなければならない。

アメリカ大陸を発見したコロンブスは、船上から見える水平線を見て、あぁ~きれいだ、なんて言っただろうか。
彼はコショウを手に入れるため、船に乗り、毎日毎日見えてくるはずの大地をまだかまだかと不安に駆られながら、残りの食料と水、そして命の不安をひっきりなしに考えていたはずだ。
旅に出ること自体が命を危険にさらす時代、ちょっと海外に旅行へなど、なかった時代だ。
命を危険にさらしてまで、旅行して息抜きしたい人間なんていない。
旅にでるという行為が、危険だった時代。
危険がある生活と、危険のない生活、俺なら素直に危険のない生活を選ぶ。
だがそれはその二つの生活で得られるものが同等の価値であるならばだ。
だが、過去の旅人は危険のある生活の方を選んだ。
すなわち旅に出ること選んだのだ。
彼らはその二つの生活に同等の価値を見出さなかった、もしくは見出せなかったのだろう。
危険に冒されても、旅の途中で死んでしまっても、希望の見える生活を目指して旅に出たほうがいいと決断したのだ。
当時、旅は命がけの行為だった。
そして、時は流れ、国内はもちろん海外までもが行くのが容易くなった時代に、定義としての「旅行」が誕生した。
危険に冒さずに外に出ることが可能になった時代なのだ。
先ほども挙げたように命懸けでの旅行なんてなんて聞いたことがない。
しかし、だからと言って、命を懸けなければ、旅ではないのかと聞かれたら、それはイエスに近いノーになる。
というのもその「行為」、命を懸けるというその「行為」に旅の主点は重きを置いているからだ。
今の時代、命を懸ける旅というのはなくなった。
そして旅で得られるものはなくなった。
金は旅に出なくとも稼げるし、水や食べ物は豊富にあるのだから。
そういったものは、旅に出なくとも手に入れられるようになったのだ。


だが、今なお、旅行と旅とを分けて考えたがる人間がいるのはなぜだろう。
それはまず、「形」のみがなくなってしまったからだろう。
そう、「形」自体は無くなってしまったのだ。

だが、形は無くなっても、持ち帰るものは存在している。
だから彼らは言うのだ。「あれは旅だった」と。
各々の旅人が何を持ち帰ってきたのか俺にはわからない。
「形」だって様々なものがあるのだから、形のないものだって、それはそれで様々だ、しかも目には見えないのだ。

旅に出て持ち帰るものが「形」ではなくなった今の世の中で、旅の必要性は薄くなってきている。
そして、どうして旅に出るのかという問いまで投げかけられる始末だ。
だがその問いかけは正しい。
過去の人々が命を懸けて、危険を冒して旅に出ていったように、彼らも何かを懸けている。
過去の人々が、危険のない生活によって守られていた何かを失ってまで、旅に出た。
そう、彼らだって昔の人が何かを失ったように、何かを失って旅に出ているのだ。
失うものの価値観よりも、旅に出て得られるものの価値観の方が自分にとって必要だと思っているのだろう。

彼らは立派にフルスイングで「何か」を溝に捨て、形にならない「何か」を得るために旅に出ている。



過去の旅人が「安住」という2文字のものを失ってるのであれば、今の旅人だってそれに変わる「何か」を失っていて、過去の旅人が旅によって「富」や「もの」を得たのであれば、今の旅人もそれに変わる「何か」を得ているのだ。


だから彼らは言う。


「旅行じゃなくて、旅だった」と。




※はっち
名古屋在住生粋の馬野郎(馬鹿野郎にあらず)。
オーストラリア生活を経て今夏にはモンゴル生活に返り咲く。


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一昨年の2007年5陣とグレートキャラバンの体験から。




草原を体験したのは、
肌寒い八月の終わりの内モンゴル



もうすっかり馬臭くなったジャケットを着て外に出た
俺を吹き抜ける風の音

満天の星と天の川
そのお陰で浮かび上がる黒い地平線

それだけの世界

およそ草原とは言えないような乾いた大地を
音がしない方に歩き出した

星空に薄くかけられた雲は
月の輪郭を滲ませる

ジーンズの足襟が擦れる音
靴が小石をにじり、硬い砂を削る音
自分の呼吸音

それだけの繰り返し

うねるような草原に、一人の人間が生えていた


ごっそりと削り取られた、枯れた川の跡

暗さゆえ、底の見えない草原の穴


静寂が聞こえた


なにかに言われるまま、川底へ降りる

そして頭が地面の高さよりも低くなった時、

音が消えた


俺は崖の上を見た

背の低い草が朧気な月と重なって揺れていた

耳があるから
鼓膜があるから
なにより存在しているから風は聞こえていた

体が草原と同じ高さになったとき

俺は人ではなくなった

草原になった

大地になった


そして気付いた
大地は風の音を聞くことはないと

そこに草が生え、馬が走り、人が立って初めて風は音を出すのだ

風の音は遮るものが無いと聞こえない

そして大地は己だけでは砂漠へと果てる

草原は、
そこに生きるものから風を聞きながら
そこに降る雨から己を感じながら
そこにできた広大な水溜まりから風を見ながら

ずっと昔から変わらずにあったのだと知った


砂漠?

それは己自身が動かされることで風を体験する

しかし多分、それを得るのは太陽と風の偉大さを知ったあとだろう

軍艦島。端島が解禁になったらしい。

なんちゅーか、アホだなぁ、とつくづく。

何で「軍艦島」に魅力を感じるのか、全く理解していないのね。
簡単には行けない場所の「ワンダー」な空気。その辺じゃないの?
気軽に行けるようになった廃墟に、自称「廃墟まにあ」の方々はどこまで変わらぬ魅力を感じ続けられるのかねぇ。

個人的な主義でなんなんだが。
旅の価値とは何なんだろうかね。
行きたい場所に行ければいいいのか。なんとなく雰囲気だけ楽しめれば、それでいいのか。
否。
あえて言うが、そんなんを許容してるから旅の価値がなくなるんだ。
そんなのを旅などと言われたら、「可愛い子に~」旅させる意味なんか無え。
苦労と壁と、困難を突破して行かなきゃ分からんものは確実にあるはずじゃないか。
苦労して行き着いたればこそ、その場所を大切にしようと思うモンだろ。
地球の大きさは、飛行機に乗ってばかりじゃ分からんぞ。
そこに住んでる人の本当の人情は、車に乗ってばかりじゃ分からんぞ。
ああ、こんな覚悟のいらない旅などクソ食らえだ!
そんな脳天気な観光客が、「その場所」を壊していくんじゃー!!!!どちくしょー!!!!!!



※注※
徳さん
底なしの良い人。自分が参加しない飲み会の予約ために1時間電話をかけ続ける。
酔うと謝る。素面でも謝る。いつでも口癖は『すいません』。
けれどふとした時の眼光は鋭く、馬で草原を400キロ駆け抜けた猛者でもある。
酒と活字をこよなく愛す。
旅にいるのは耳かき、いらんのは予約、あるといいのは言語!だと思ういねです。


私にとって旅は旅以外何でもなく、日常の一部っぽい。

友達の友達と学校で偶然仲良くなるのも、地球の裏側で出会って仲良くなるのも、同じくらい大切でおもしろい。

ここで暮らす私も砂漠のはじっちょにいる自分も、全く変わらない。

でもやっぱ遠いところにいくとそれだけ自分の想像を超えるものがたくさんあって、たくさん驚いたり感動したりするから、おもしろい!

遠くても近くても、似ていても違っても、色んな人やものや景色や何かに出会いたいー。
好きなものが増えるのって、幸せ!

まだまだたくさんあるってわかっているから、止まれへん。


※注※
いね
京都で踊り狂うことを生きがいにしている22歳女性。
ペルー、中国、海遊館、砂漠などを愛す。
常に何かを食べようとする。
物忘れが痴呆レベル。忘れ物を取りに戻った先に何かを置いてくるのが特技。

 4月19日、言い出しっぺはマジ100企画というおかしな人たちの集まりに参加してきました。

そこで『旅に対する想いを書いてよ!』とか『旅人連合に対するメッセージを書いてよ!』って言ってノート回したららすんごいみんな書いてくれて、すんごい嬉しかったから全文全部、紹介します。



・結局、行って来いで終れる人が多い。
表現の一つ前の段階のはなし。
自己完結をよしとせずに、発信したいと思う心意気を引き出すきっかけをバラまく
(コバ)

・旅人になり、海外で友達いっぱい作って、世界中に友達作って今後その国に行くときに家に泊まらせてもらう。
(えみりー)

・『旅の魅力』
自分達の忘れがちな、当たり前の幸せに気づける。
他の国・県のコトも好きになれる。
いろんな人と友達になれる→ニュースとか身近なコトと思って考えることが出来る。
(のどか)

・人はもともと独りだ。
群れるのはオアシス。ゴールではない。
散れ。
まずは。
帰ってきて持ち寄って、先を争って話すのが楽しみだ。
(コバ)

・辛+1=幸
(えみり)

・これからに向かって旅へ出ろ。
想い出のための旅は要らない。
(コバ)

・『未知』
私はこの小さな環境に満足していない。
美しい空とか輝く海とか
もっともっと知らない場所に行って色んな経験がしたい。
(ナンバ)

・『語る』
語るということは最も簡単に出来る旅である。
神髄に肉付きをほどこされた本体から、余分な肉を削っていく行為だ。
旅で得られる視点、考えも同様の役割を果たしているのだと思う。
(おとん)

・『わくわくどきどき』
遠そくに行く前の小学生の気分♪
知らない場所に行く不安もあるけど、それよりも妄想ばっかり広がってしょーがなくなる!!
はじめてのところに行くことで誰も私を知らないから、また新しい自分にも出逢えそう。
期待でいっぱい!
(ゆうゆう)

・旅の目的地は、あくまで桃源郷へと。
ノスタルジアを感じる。そこが桃源郷。
(コバ)

・1%の勢いによって旅は始まる。
98%の後悔。
1%の思い出。
最後の1%が勢いに変わる。
(川助)

・今僕の見ているのは「世界のカタスミ」なのか?
だからこそ旅に出る。
世界には未だ見ぬ地、人が生きている。
無限の可能性や未来がそこにはあるはず。
(つかさ)

・旅は歩くこと。走らず、止まらず。
見たものは真実。きっとうたがえない。
それによって見えなくなるものはあるのかな?
旅は怖いと思うこともある。ここはマイナス。
不安やギャップの初めての対応は難しい。
だけど経験。
次はきっと大丈夫。
(ゆぅとぅ)

・明日バイトやし帰るわ。
(エミリー)

・教育の喜び。
人生は冒険だ。
仕事も人生の遊び、自分に知らない世界が広がっているから。
人生は冒険だ。
未知を求めてドキドキワクワク。

出逢えた今日という日に感謝して
次は出会おう。
出会えることに、只感謝。
(SHU)

・くすんだ色の白の中に一点が在る
白は無ではないの
薄灰色の文字がびっしり、近づくとうるさい。
一点は線なのかも
時間に乗っかって伸びてく
それは好奇心で
今はそれが在るのみ か。
でも柔軟に、ぐねぐねにおびえず
線を増やしたり 減らしたり
変わっていくことを 楽しみたい。
(バーバラ)

・好きなものは好き
嫌いなものは嫌いと。
アイの上に成り立つ信頼。
好き、嫌い、さみしい、怒り、悲
意思疎通=安心感×不安←→迎合×信用
「好き」で通じ合っていればそれで無敵。とても簡単。
恥なんて捨てろ。
(べに)

・ムダな経験はないのかな
経験をムダにしてるだけなのかな
(みきオ)



以上。
すっごい嬉しい。
ありがとう。ありがとうね。
そしてもっともっと声を集めたい。
想いを形にして、それを発信していく。そのためにここに在るんじゃないかななんて思わせてくれた夜でした。

しかし・・

・やべえ・・・
絶対、帰れねえっす
自信がある→マイナス方向で
辞世の句→切腹→自害

と震える字で書き殴ってあって、そこに自分の名前が添えてあるのは目の錯覚なんでしょうか。
呑み過ぎには気をつけたいです。はい。


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